3月6日、リーダースキャンプ2日目に行われた講演会の模様をお伝えしたいと思います。
講師:村田亙氏 (ヤマハ発動機株式会社 ラグビー部)
『トップアスリートとしての軌跡』

【村田亙(むらた・わたる)氏の略歴(一部抜粋)】
1968年、福岡県生まれ。専修大学出身。日本人初のプロラグビー選手。ポジションはスクラムハーフ(SH)。
東福岡高→専修大学(主将として関東大学リーグ優勝)→
東芝府中ラグビー部(日本選手権3連覇)→この間3大会連続で日本代表として
ワールドカップ出場→
日本人初のプロ選手としてフランスのバイヨンヌへ移籍→ヤマハ発動機ジュビロ入団→
日本代表復帰→7人制ラグビー日本代表兼コーチ就任→
現役引退、7人制ラグビー日本代表監督就任、現在に至る
「ゲームをしよう」。その言葉で講演会は始まりました。二人で組んで、相手の頬を叩いたら勝ち。お互いに必死に防ぐ。何度かそれをしたあと、村田さんの話がスタート。どの学生も、講演会開始前よりも随分とリラックスした表情で、席に着きました。


「僕も大学生の頃、主将としてこのリーキャン(リーダースキャンプの略)に来て、いろんな部の主将たちと名刺を交換したり、話したりしました。僕にとっても、リーキャンというのは思い出の行事です。その頃専修には岡林・杉山・武藤と3人のすごいピッチャーがいたり、スピスケには黒岩という選手がいたり、アメフトも強かったり、とにかく体育会全部が強くて、僕にとって体育会は誇りでした」
その言葉のあと、まず10分間のビデオが流れました。村田さんが海外に挑戦するときに、自身をアピールするためにつくったというものです。


「30代で、海外に挑戦した理由を話します。91年のW杯初戦のスコットランド戦に、同じポジションのライバルだった堀越(正巳・現立正大ラグビー部監督)ではなく、僕が出たんです(9-47で負け)。唯一白星をあげたジンバブエ戦、僕はベンチで見ていただけだった。すごく出たかった。そして日本に帰ってきたとき、日本のメディアは“どうして初戦から堀越を使わなかった?”といいました。だけど海外のメディアは違った。“どうして2・3戦目、村田じゃなかったんだ?”だったんです。そのとき僕は、“海外の方が、見る目がある”と、プラスに考えた。
それから、スコットランドのクラブからオファーが来ました。それはうやむやに終わってしまったんですが。そしてその頃、東芝府中ラグビー部で日本選手権の3連覇を果たしました。それで僕の(日本での)役目は終わったと思った。その時、イギリスが日本人のいい選手を探していました。イギリスは早くからプロ化も進んでいた。イタリアも僕のことを面白がってくれ、フランスも香港セブンス(7人制ラグビーの国際大会)の時に知った人がいて、話が来た。
それで僕は、マネージャーと一緒に「世界を見たい」と周りには言って、フランスに行きました。するとフランスはまだぼくの練習も見ずに、すぐに契約しようと言ってくれた。どうしてかというと、香港セブンスのときにアビロン・バイヨンヌというチームののGMで、フランスの団長でもあった方が僕のことを見て覚えていたんです。でも、スパイクも持ってきたのだから、プレーを見てほしいと頼んだら、“もちろん、生で観たいしやろうか”、となった。それで、スパイクに足を通すと、震えるんです。日本ではこんなことはなかった。“亙しっかりしろ”、と自分に言い聞かせました」
「31歳、東芝府中での引退試合(対クボタ)を終え、その約1ヶ月後、正式にフランスへ移籍したのですが、そのときちょうどまたW杯(99年)がありました。そこで評価を得て、フランスへ行きたいと思ったのですが、99年、ニュージーランド代表スクラムハーフのバショップ(グレアム・バショップ)が、同じポジションに来ました。それでもそれをネガティブには考えないようにした。こんなすごい選手と一緒にやれる、楽しもう、吸収しよう、と思っていました。バショップと最初に握手したとき、自分も大きい方なのに、彼の手はグローブのように大きかった。プレーでは自分が勝っているところもあった。でも彼は“精密機械”のように正確なプレーをした。この時の経験が、自分自身のパワーアップにもつながったと思っている。“この借りはフランスで爆発して返す”、と誓った」
そして村田さんはフランスへ。その途端、思いもよらない機会がやってきました。
「フランスに行って1週間(正式には10日)くらいでデビュー戦でした。スクラムハーフがキャプテンで、能力が高いのですが、チームとしては少しマンネリ化していた。そこで僕のことを起爆剤として入団させたようなところがあったのですが、思いもよらず僕が行って3日で、そのキャプテンが怪我したんです。メンバー発表(ミーティング)で“僕を使う”と言われた」
「フランスに行ったら、しばらくは慣れて、それから試合だろう、という風に正直なところ思っていた。だけどこのピンチはチャンスだ、やるしかない。そう思った」
ここで講演会会場モニターに、スポーツキャスターの長嶋三奈さんが、フランスまで村田さんを取材に行った、「村田亙 一人革命」という、ニュースステーションでの特集の映像が流れます。
“堀越正巳(前出)が「つなぐ」型ならば、村田は「超攻撃」型のスクラムハーフ。”
フランスでのデビュー戦、このとき31歳。
“先制点を決めたのは名前も分からぬ外国人選手でした”。それは村田さんでした。2トライ目も奪取。
そこで村田さんは画面からマイクに戻り、
「このとき話せた言葉は“ありがとう”だけ。練習でも、キョロキョロキョロキョロしているでしょう」
フランスに行ったばかりの頃の練習の映像を観て、懐かしむように語られました。
「いきなりこういうプレーが出来て、最高の形でデビュー出来たわけですが、そのあとが大変でした。だけど、僕には“ラグビーでは負けない”という自信があった。言葉などはあとからついてくるものだと。2シーズン目には、普通に会話が出来るようになった。フランスで何を学んだか、ひとことで言えば、タフになった」
「1ヶ月して、家族もフランスに呼びました。そのときには長女もいた。そのころバイヨンヌには日本の家族は3軒しかなかった。家族もこっちに呼んで、もう、僕がやるしかないんだ、と思った。僕が勝って、給料を上げるしかない。失うものは大きい、けど戻ってくることも大きい」
ここからは会場のリーダーたちに向けての具体的な話に。
「“世界で、ラグビーで活躍する”、小6のときの文集に書いていました。そのとき僕はチームで補欠。身長も130センチしかなかった。高2のときから、監督に認められ試合に出た。その頃、試合前必ず監督から言われていたことが、“好きなようにやってこい、好きなようにゲームを楽しめ”、でした。楽しいから続けられた。目標を高い位置に設定して、計画を立てた。あとは実行するだけ。楽しんでやらないと、間違った方向に行けば、それは無駄な努力になってしまう」
「盛り上げたり、声を掛け合うような場をつくるのはもちろん、ラグビー以外のところで、学校にちゃんと行き、文武両道であること、それがリーダーとして必要だと思います」
村田さんは先月の2日、トップリーグ最終戦の対東芝戦を最後に、現役を引退。
ここまで続けることのできた要因をふたつ挙げました。
そこにはもう一人の、挑戦し続けるトップアスリートの存在がありました。
「40歳まで続けた1つの要因は、とにかく負けて終わりたくない、勝って終わりたい、というのがあったからです。あともう1つは、隣のゴン中山(中山雅史:プロサッカー選手・ジュビロ磐田FW、同会社のラグビー部とサッカー部という関係)です。ゴンがいたからここまで続けられた。ヤマハに移籍したときからメールを交換し、切磋琢磨し合った。共感できることがたくさんあった。お互いの友情は途切れることなく、引退試合には彼が登場するというサプライズをしてくれました」
「引退した理由は、同じポジションに日本代表が来たことと、そしてこれは引退表明のときは言わなかったのですが、目の焦点が合わなくなっていたからです。左方向の視界がダブるようになり、そろそろ辞め時だと思った。一生続けたいと思っていました。でもここまできたらすっきりと辞めたい。今度は指導者として、一番を目指したい」
村田さんは力強くそう言い、そして最後はこう締め括られました。
「君たちのリーダシップにかかっています。監督たちとも根本まで話し合ってやっていくこと、そして専大全体を盛り上げていくことも考えてやって欲しい。体育会の環境、ラグビーだけでなくて全体のことですが、例えば、伊勢原から大学まで通学に1時間以上かかるところを、伊勢原から近くの大学と提携して、そこで単位を取れるようにするなど…ぜひとも先生方、検討していただきたいです(笑い)。みなさん、どんどん友達の輪を広げてください」
最後に村田さんが引退したときにヤマハが作ってくれたというビデオを観て、講演は終了。
ラグビーへの情熱と、母校への愛あふれる貴重なご講演、ありがとうございました。
【村田さんへ質問タイム!】
~講演後、学生や職員から、様々な質問が飛び出しました~

―怪我をした人と、その周りの支える人のモチベーションというか、気持ちの持ち方は?
「僕は怪我が多かった。90年代、東芝で、3年間のうちに右肩を7回脱臼しました。7回目でメスを入れたんですが、とにかく体力が落ちるのが嫌でした。大きな怪我の2つ目は、あごの骨折で、砕けてしまったので、すぐ手術して下顎と顎間接にプレート4枚とビスを合計16本入れました。大切なのはすぐに治る方法を聞くことで、僕の場合それが手術だったのですぐにしました。とにかくラグビーが好きで、早くラグビーがしたいと思った。負けず嫌いなので、このままではいられないと、病院でも階段の上り下りをし続けた。とにかく復帰したい一心でした。だから普通の人より早く復帰できたのだと思います。
もう1つの質問ですが、チームメイトが怪我した場合、一番大切なのは“声をかけてやる”ということです。それとリハビリのサポートをすること。自分の知っているいい病院を紹介したりだとか、同じところを怪我したことがあるなら、一番治りの早い方法を勧めること。とにかく、その都度声をかけてあげることが大事です。“お前を待ってる”という気持ちを伝えること。ほっとかれると、“必要ないんだ”、と考える選手も中にはいます」
―試合前に、気持ちを良い状態に持っていく方法は?
「僕の場合ですが、最初に観てもらったあの10分間のビデオを観ます。一番調子のいいときの。何回もこれを繰り返し観て、試合で同じようなプレーが出来たり、というのが多々ありました。
ひとつ言えるのは、“頑張る”とかではなく“楽しめているか”ということ。自分を客観的にみて、“俺調子いいな”、“イケてるな”、とか、自分で自分を盛り上げる。ポジティブに考えれば、どんどん上手くいく。とにかくポジティブになることです。そして自分を客観的にみてリラックスすること、今日何をすればいいかのテーマを決めること。
あと僕は以前キッカーだったのですが、プレースキックを蹴るとき、“入れたいなぁ”、じゃ駄目なんです。ふっ、と無になる。音が聞こえなくなる。すると自然に足が出る。代表のときは本当に入りました」
―選手兼監督をする機会を頂いているのですが、そこで大事なこととは?
「選手と目線を一緒にすること。上から人を見ない。そうすることでお互いの気持ちや感じ方がわかる。僕も7人制ラグビーの選手兼コーチをしていましたが(現在は監督)、たくさんの選手が怪我をしてしまい、僕が試合に出ることになったことがあります。しかし上手くプレーすることができました。それは、選手と一緒の目線でやってきていたからだと思います」
―スポーツをしていく上でこれだけは、という気持ちはどんなこと?
「そのスポーツを愛することです。それによってそのスポーツを理解し、極めることが出来る。これは好きな人とかでも同じことです。たとえフラれてしまうとしても、まずアタックすることによって、自分の思いを伝えることができる。アタックしなければなにも始まらない。アタックすることにより、お互い共有し合い、それぞれの意気(感覚)が合えば愛し合えるのかな、と僕は思う」

最後に、ジャンケンで村田さんに勝った2名に素敵なプレゼントがありました!
(松本かおり・文2)
講師:村田亙氏 (ヤマハ発動機株式会社 ラグビー部)
『トップアスリートとしての軌跡』

【村田亙(むらた・わたる)氏の略歴(一部抜粋)】
1968年、福岡県生まれ。専修大学出身。日本人初のプロラグビー選手。ポジションはスクラムハーフ(SH)。
東福岡高→専修大学(主将として関東大学リーグ優勝)→
東芝府中ラグビー部(日本選手権3連覇)→この間3大会連続で日本代表として
ワールドカップ出場→
日本人初のプロ選手としてフランスのバイヨンヌへ移籍→ヤマハ発動機ジュビロ入団→
日本代表復帰→7人制ラグビー日本代表兼コーチ就任→
現役引退、7人制ラグビー日本代表監督就任、現在に至る
「ゲームをしよう」。その言葉で講演会は始まりました。二人で組んで、相手の頬を叩いたら勝ち。お互いに必死に防ぐ。何度かそれをしたあと、村田さんの話がスタート。どの学生も、講演会開始前よりも随分とリラックスした表情で、席に着きました。


「僕も大学生の頃、主将としてこのリーキャン(リーダースキャンプの略)に来て、いろんな部の主将たちと名刺を交換したり、話したりしました。僕にとっても、リーキャンというのは思い出の行事です。その頃専修には岡林・杉山・武藤と3人のすごいピッチャーがいたり、スピスケには黒岩という選手がいたり、アメフトも強かったり、とにかく体育会全部が強くて、僕にとって体育会は誇りでした」
その言葉のあと、まず10分間のビデオが流れました。村田さんが海外に挑戦するときに、自身をアピールするためにつくったというものです。


「30代で、海外に挑戦した理由を話します。91年のW杯初戦のスコットランド戦に、同じポジションのライバルだった堀越(正巳・現立正大ラグビー部監督)ではなく、僕が出たんです(9-47で負け)。唯一白星をあげたジンバブエ戦、僕はベンチで見ていただけだった。すごく出たかった。そして日本に帰ってきたとき、日本のメディアは“どうして初戦から堀越を使わなかった?”といいました。だけど海外のメディアは違った。“どうして2・3戦目、村田じゃなかったんだ?”だったんです。そのとき僕は、“海外の方が、見る目がある”と、プラスに考えた。
それから、スコットランドのクラブからオファーが来ました。それはうやむやに終わってしまったんですが。そしてその頃、東芝府中ラグビー部で日本選手権の3連覇を果たしました。それで僕の(日本での)役目は終わったと思った。その時、イギリスが日本人のいい選手を探していました。イギリスは早くからプロ化も進んでいた。イタリアも僕のことを面白がってくれ、フランスも香港セブンス(7人制ラグビーの国際大会)の時に知った人がいて、話が来た。
それで僕は、マネージャーと一緒に「世界を見たい」と周りには言って、フランスに行きました。するとフランスはまだぼくの練習も見ずに、すぐに契約しようと言ってくれた。どうしてかというと、香港セブンスのときにアビロン・バイヨンヌというチームののGMで、フランスの団長でもあった方が僕のことを見て覚えていたんです。でも、スパイクも持ってきたのだから、プレーを見てほしいと頼んだら、“もちろん、生で観たいしやろうか”、となった。それで、スパイクに足を通すと、震えるんです。日本ではこんなことはなかった。“亙しっかりしろ”、と自分に言い聞かせました」
「31歳、東芝府中での引退試合(対クボタ)を終え、その約1ヶ月後、正式にフランスへ移籍したのですが、そのときちょうどまたW杯(99年)がありました。そこで評価を得て、フランスへ行きたいと思ったのですが、99年、ニュージーランド代表スクラムハーフのバショップ(グレアム・バショップ)が、同じポジションに来ました。それでもそれをネガティブには考えないようにした。こんなすごい選手と一緒にやれる、楽しもう、吸収しよう、と思っていました。バショップと最初に握手したとき、自分も大きい方なのに、彼の手はグローブのように大きかった。プレーでは自分が勝っているところもあった。でも彼は“精密機械”のように正確なプレーをした。この時の経験が、自分自身のパワーアップにもつながったと思っている。“この借りはフランスで爆発して返す”、と誓った」
そして村田さんはフランスへ。その途端、思いもよらない機会がやってきました。
「フランスに行って1週間(正式には10日)くらいでデビュー戦でした。スクラムハーフがキャプテンで、能力が高いのですが、チームとしては少しマンネリ化していた。そこで僕のことを起爆剤として入団させたようなところがあったのですが、思いもよらず僕が行って3日で、そのキャプテンが怪我したんです。メンバー発表(ミーティング)で“僕を使う”と言われた」
「フランスに行ったら、しばらくは慣れて、それから試合だろう、という風に正直なところ思っていた。だけどこのピンチはチャンスだ、やるしかない。そう思った」
ここで講演会会場モニターに、スポーツキャスターの長嶋三奈さんが、フランスまで村田さんを取材に行った、「村田亙 一人革命」という、ニュースステーションでの特集の映像が流れます。
“堀越正巳(前出)が「つなぐ」型ならば、村田は「超攻撃」型のスクラムハーフ。”
フランスでのデビュー戦、このとき31歳。
“先制点を決めたのは名前も分からぬ外国人選手でした”。それは村田さんでした。2トライ目も奪取。
そこで村田さんは画面からマイクに戻り、
「このとき話せた言葉は“ありがとう”だけ。練習でも、キョロキョロキョロキョロしているでしょう」
フランスに行ったばかりの頃の練習の映像を観て、懐かしむように語られました。
「いきなりこういうプレーが出来て、最高の形でデビュー出来たわけですが、そのあとが大変でした。だけど、僕には“ラグビーでは負けない”という自信があった。言葉などはあとからついてくるものだと。2シーズン目には、普通に会話が出来るようになった。フランスで何を学んだか、ひとことで言えば、タフになった」
「1ヶ月して、家族もフランスに呼びました。そのときには長女もいた。そのころバイヨンヌには日本の家族は3軒しかなかった。家族もこっちに呼んで、もう、僕がやるしかないんだ、と思った。僕が勝って、給料を上げるしかない。失うものは大きい、けど戻ってくることも大きい」
ここからは会場のリーダーたちに向けての具体的な話に。
「“世界で、ラグビーで活躍する”、小6のときの文集に書いていました。そのとき僕はチームで補欠。身長も130センチしかなかった。高2のときから、監督に認められ試合に出た。その頃、試合前必ず監督から言われていたことが、“好きなようにやってこい、好きなようにゲームを楽しめ”、でした。楽しいから続けられた。目標を高い位置に設定して、計画を立てた。あとは実行するだけ。楽しんでやらないと、間違った方向に行けば、それは無駄な努力になってしまう」
「盛り上げたり、声を掛け合うような場をつくるのはもちろん、ラグビー以外のところで、学校にちゃんと行き、文武両道であること、それがリーダーとして必要だと思います」
村田さんは先月の2日、トップリーグ最終戦の対東芝戦を最後に、現役を引退。
ここまで続けることのできた要因をふたつ挙げました。
そこにはもう一人の、挑戦し続けるトップアスリートの存在がありました。
「40歳まで続けた1つの要因は、とにかく負けて終わりたくない、勝って終わりたい、というのがあったからです。あともう1つは、隣のゴン中山(中山雅史:プロサッカー選手・ジュビロ磐田FW、同会社のラグビー部とサッカー部という関係)です。ゴンがいたからここまで続けられた。ヤマハに移籍したときからメールを交換し、切磋琢磨し合った。共感できることがたくさんあった。お互いの友情は途切れることなく、引退試合には彼が登場するというサプライズをしてくれました」
「引退した理由は、同じポジションに日本代表が来たことと、そしてこれは引退表明のときは言わなかったのですが、目の焦点が合わなくなっていたからです。左方向の視界がダブるようになり、そろそろ辞め時だと思った。一生続けたいと思っていました。でもここまできたらすっきりと辞めたい。今度は指導者として、一番を目指したい」
村田さんは力強くそう言い、そして最後はこう締め括られました。
「君たちのリーダシップにかかっています。監督たちとも根本まで話し合ってやっていくこと、そして専大全体を盛り上げていくことも考えてやって欲しい。体育会の環境、ラグビーだけでなくて全体のことですが、例えば、伊勢原から大学まで通学に1時間以上かかるところを、伊勢原から近くの大学と提携して、そこで単位を取れるようにするなど…ぜひとも先生方、検討していただきたいです(笑い)。みなさん、どんどん友達の輪を広げてください」
最後に村田さんが引退したときにヤマハが作ってくれたというビデオを観て、講演は終了。
ラグビーへの情熱と、母校への愛あふれる貴重なご講演、ありがとうございました。
【村田さんへ質問タイム!】
~講演後、学生や職員から、様々な質問が飛び出しました~

―怪我をした人と、その周りの支える人のモチベーションというか、気持ちの持ち方は?
「僕は怪我が多かった。90年代、東芝で、3年間のうちに右肩を7回脱臼しました。7回目でメスを入れたんですが、とにかく体力が落ちるのが嫌でした。大きな怪我の2つ目は、あごの骨折で、砕けてしまったので、すぐ手術して下顎と顎間接にプレート4枚とビスを合計16本入れました。大切なのはすぐに治る方法を聞くことで、僕の場合それが手術だったのですぐにしました。とにかくラグビーが好きで、早くラグビーがしたいと思った。負けず嫌いなので、このままではいられないと、病院でも階段の上り下りをし続けた。とにかく復帰したい一心でした。だから普通の人より早く復帰できたのだと思います。
もう1つの質問ですが、チームメイトが怪我した場合、一番大切なのは“声をかけてやる”ということです。それとリハビリのサポートをすること。自分の知っているいい病院を紹介したりだとか、同じところを怪我したことがあるなら、一番治りの早い方法を勧めること。とにかく、その都度声をかけてあげることが大事です。“お前を待ってる”という気持ちを伝えること。ほっとかれると、“必要ないんだ”、と考える選手も中にはいます」
―試合前に、気持ちを良い状態に持っていく方法は?
「僕の場合ですが、最初に観てもらったあの10分間のビデオを観ます。一番調子のいいときの。何回もこれを繰り返し観て、試合で同じようなプレーが出来たり、というのが多々ありました。
ひとつ言えるのは、“頑張る”とかではなく“楽しめているか”ということ。自分を客観的にみて、“俺調子いいな”、“イケてるな”、とか、自分で自分を盛り上げる。ポジティブに考えれば、どんどん上手くいく。とにかくポジティブになることです。そして自分を客観的にみてリラックスすること、今日何をすればいいかのテーマを決めること。
あと僕は以前キッカーだったのですが、プレースキックを蹴るとき、“入れたいなぁ”、じゃ駄目なんです。ふっ、と無になる。音が聞こえなくなる。すると自然に足が出る。代表のときは本当に入りました」
―選手兼監督をする機会を頂いているのですが、そこで大事なこととは?
「選手と目線を一緒にすること。上から人を見ない。そうすることでお互いの気持ちや感じ方がわかる。僕も7人制ラグビーの選手兼コーチをしていましたが(現在は監督)、たくさんの選手が怪我をしてしまい、僕が試合に出ることになったことがあります。しかし上手くプレーすることができました。それは、選手と一緒の目線でやってきていたからだと思います」
―スポーツをしていく上でこれだけは、という気持ちはどんなこと?
「そのスポーツを愛することです。それによってそのスポーツを理解し、極めることが出来る。これは好きな人とかでも同じことです。たとえフラれてしまうとしても、まずアタックすることによって、自分の思いを伝えることができる。アタックしなければなにも始まらない。アタックすることにより、お互い共有し合い、それぞれの意気(感覚)が合えば愛し合えるのかな、と僕は思う」

最後に、ジャンケンで村田さんに勝った2名に素敵なプレゼントがありました!
(松本かおり・文2)
スポンサーサイト
第44回専修大学体育会リーダースキャンプが、3月5・6日、熱海市の「熱海後楽園ホテル」にて行われた。主催は専修大学体育会本部。体育会の主将・主務約100人が一同に会し、講演会や実習・発表を通して、リーダーとしての意識の向上をはかり、また各部間の親睦を深めた。
1日目の講演会は、昨年常総学院高より専大松戸高の野球部監督に就任した持丸修一氏。リーダーとしてのあり方を、高校と大学の違いを例に分かりやすく論じた講演は、悩める新リーダーたちの心を惹き付けた。
2日目は、今年2月に現役を引退し、7人制ラグビー日本代表監督に就任して間もない、村田亙(平2文・ラグビー部OB)氏の講演。専大時代の思い出も交えながら、今なお挑戦し続けるラグビー人生の経験を、映像と共に語った。まさに今回のテーマである『今後の自分の新しい行動のあり方を探る』をベースに、未知の自分に懸け、挑んでいく姿勢の大切さを、熱く学生に伝えた。
2日間通しての実習では、「自己資質の明確化-リーダーに求められる資質とは-」をテーマに、団体競技と個人競技の主将と主務それぞれに分かれてグループを組み、ディスカッションを行った。
2日間寝食を共にし、普段の生活ではなかなか出来ない経験が詰めこまれた時間は、非常に充実したものとなった。

体育部長 加藤茂夫氏

開会式の様子

講演会1日目 持丸修一氏

体育会本部委員長 若月麗

実習:ディスカッション風景1

実習:ディスカッション風景2

実習:グループ代表による発表1

実習:グループ代表による発表2

閉会式で行われた、各部昨年度反省と今年度の抱負発表
(取材:新海城生・経済3、松本かおり・文2、庄司亮介・文1、渡辺知美・文1)
1日目の講演会は、昨年常総学院高より専大松戸高の野球部監督に就任した持丸修一氏。リーダーとしてのあり方を、高校と大学の違いを例に分かりやすく論じた講演は、悩める新リーダーたちの心を惹き付けた。
2日目は、今年2月に現役を引退し、7人制ラグビー日本代表監督に就任して間もない、村田亙(平2文・ラグビー部OB)氏の講演。専大時代の思い出も交えながら、今なお挑戦し続けるラグビー人生の経験を、映像と共に語った。まさに今回のテーマである『今後の自分の新しい行動のあり方を探る』をベースに、未知の自分に懸け、挑んでいく姿勢の大切さを、熱く学生に伝えた。
2日間通しての実習では、「自己資質の明確化-リーダーに求められる資質とは-」をテーマに、団体競技と個人競技の主将と主務それぞれに分かれてグループを組み、ディスカッションを行った。
2日間寝食を共にし、普段の生活ではなかなか出来ない経験が詰めこまれた時間は、非常に充実したものとなった。

体育部長 加藤茂夫氏

開会式の様子

講演会1日目 持丸修一氏

体育会本部委員長 若月麗

実習:ディスカッション風景1

実習:ディスカッション風景2

実習:グループ代表による発表1

実習:グループ代表による発表2

閉会式で行われた、各部昨年度反省と今年度の抱負発表
(取材:新海城生・経済3、松本かおり・文2、庄司亮介・文1、渡辺知美・文1)
3月1日~2日、熱海後楽園ホテルにおいて、第43回専修大学体育会リーダースキャンプが行われた。主催は専修大学体育会本部。
テーマは『「リーダー」としての自己への問いかけ―リーダーに求められる資質とは―』。
各部活の代表者(主将・主務、またはその代理)が集結し、講演会・実習などを通して、より知識や見解を深めるとともに、普段同じ体育会でも接することの少ない仲間たちと交流し、有意義な時間を過ごすことができました。
リーキャン風景を何枚かご紹介します。

開会式。部名のあいうえお順に並んでいます。

教職員の方々です。

実習が始まりました。グループに分かれて、まずは自己紹介から。

リーダーの資質について、意見を交換しています。

最初に比べ、だんだん表情もリラックスしてきていました。

そして2日目、グループごとにリーダーに求められるものに順位をつけて発表します。

みなさん、落ち着いて自分の言葉で発表していました。

閉会式。体育会本部委員長、宮本伸一の挨拶。

最後に、各部が昨年度の反省と今年度の抱負を宣言しました。

会場を沸かせた野球部のお二人。
テーマは『「リーダー」としての自己への問いかけ―リーダーに求められる資質とは―』。
各部活の代表者(主将・主務、またはその代理)が集結し、講演会・実習などを通して、より知識や見解を深めるとともに、普段同じ体育会でも接することの少ない仲間たちと交流し、有意義な時間を過ごすことができました。
リーキャン風景を何枚かご紹介します。

開会式。部名のあいうえお順に並んでいます。

教職員の方々です。

実習が始まりました。グループに分かれて、まずは自己紹介から。

リーダーの資質について、意見を交換しています。

最初に比べ、だんだん表情もリラックスしてきていました。

そして2日目、グループごとにリーダーに求められるものに順位をつけて発表します。

みなさん、落ち着いて自分の言葉で発表していました。

閉会式。体育会本部委員長、宮本伸一の挨拶。

最後に、各部が昨年度の反省と今年度の抱負を宣言しました。

会場を沸かせた野球部のお二人。